江戸時代後期の文政4年(1821年)、指物大工の遠渡三作がある夜、荘厳華麗な仏閣の夢を見て思い立ち、同業者だった井上利久平、平井三作の両名に協力を求めて仏壇製造を志したというもの。しかし製造技術が確立されたのはもう少し後の嘉永年間(1850年頃)これが、九州での仏壇製造の源流ともなっており、江戸時代末期には仕上師18人、彫刻師7人、仏師7人、絵物(木地)師 10人を数えるほどに発展した。
今から約120年ほど前の明治22年(1889年)、町村合併によって大川町が誕生し木工関係者が町全体の四分の一を占めるほどになりました。この発展の原因には、塗装方法や木工機会の進歩などの技術の発展のほかに、材料の木材が確保できたことと、家具製品の販売先が広がったことがあげられます。いまでは、箱物(タンス類)、棚物(食器棚等)家具を中心とした日本最大の家具産地に成長し、高価格製品から普及製品まで、幅広い商品構成を特色とした産地を形成しています。